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ひろしま食物語 ひろしま食物語

小学校の先生から農業へ

2020年11月執筆記事

世羅郡世羅町
ReSEED

森澤 祐佳

 「おはようございます! よろしくお願いします!」編集部を元気いっぱいに迎えてくれたのは森澤祐佳さん。森澤さんは農業に従事する前、小学校で教員として働いていた。取材中、終始ハツラツと対応してくれる姿に「こんな先生が担任だったら、きっと明るいクラスになりそうだなぁ(叱る時はキチッと叱りそう)」と想像してしまった。
 森澤さんが教員を目指したのは高校の時、1年間カナダに留学したのがきっかけ。留学前は特に将来の目標はなかったが「1年間、英語を学びながら将来についてしっかり考える」と両親と約束し、何が好きなのか、何が向いているのか、自分とじっくり向き合った。
 いろいろ考えるうち、カナダで日本語を教えたいと思うようになったが、永住権などの問題でなかなか難しく断念。ちょうどその頃、日本で小学校教育に英語が導入されるというタイミングで、英語好き、子ども好きということもあって「教員として英語を教えたい」と考えた。「英語が話せると世界観が変わり、多くの人と話せるようになります。子どもたちの可能性を広げるのもいいなと。中学校でもよかったのですが、6年間、長く成長を見守ることができる小学校に、より魅力を感じました」。帰国して大学に進学し、教員免許を取得した。
 大学を卒業して1年目は残念ながら採用に至らず、実家近くの坂町にある小学校で非常勤講師として教壇に立った。2年目にめでたく採用、勤務先に決まったのが世羅町だった。「世羅町ってどこ?」ずっと広島県に住んではいたけれど知らない町。戸惑いながらも、念願の教員生活がスタートした。

 日々成長を見せてくれる子どもたちと過ごす教員生活は、目まぐるしくも充実感に満ちていた。そんな毎日に転機が訪れたのは4年目のこと。県の公立学校では、初任者は4年勤務したら翌年から別の市町へ転勤しなければならないという決まりがあり、ようやく慣れ親しんだ世羅町を離れなければならなかった。その時、森澤さんの心に「この町に残って、この町のために自分にできることを探したい」という気持ちが芽生えた。
 「小学校で、ふるさと学習といって、自分たちが住む町を好きになろうという授業があるのですが、子どもたちはこの町が好きで、どこが好きなのかも言えるんです。でも実際は希望の就職先がないからと、多くは町を出て、帰ってきません。だから高齢化してしまう。暮らしていると、そんな問題を切実に肌で感じます。そこで、見渡す限り田んぼや畑に囲まれたこの町で、農業をもっと楽しく、儲かるような仕組みに変えられないか、自分がチャレンジしてみようと思いました。農業は大変なのに儲からない、そんなマイナスイメージが問題。だからそれを覆すことができれば、若者も集まるのではないかと。教員の仕事には満足していましたが、教員は50歳になってもできる、チャレンジするなら今だと思ったんです」。
 周りの先生たちには反対され、引き留められた。4年間頑張ってようやく一人前になろうかという時期に辞めるというのだから、それも当然のこと。森澤さんも、ここまで育ててもらったという感謝は大きく、申し訳ない気持ちもあったが、決意が揺らぐことはなかった。

 森澤さんの決意を揺るぎないものに変えた大きな出来事があった。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災だ。その日は家族が東京に滞在していた。午後に予定していた福島への墓参りを午前中に済ませて東京に戻り、ご飯でも食べようと待ち合わせたところに震災が。宿はキャンセルになり、受け入れ先も見つからないまま公園で半日くらい過ごしたが、その後、なんとか取れた宿にしばらく滞在して広島に戻ってきた。
 「たまたま家族がそんな経験をして、食の大切さが身に染みたというか、いざという時に食べるものがないということは、大きな不安材料だと。父親も『そんな時に農業に興味を持ったのも何かの縁だから、お前がやりたいと思うならやってみろ』と背中を押してくれて」。
 世羅と農業への思いにこうした偶然も重なって、森澤さんの心は決まった。翌年2012(平成24)年3月、教員を辞め、農業の道へと足を踏み入れた。

 まずは農業を学ぶために、4月から世羅町で研修をスタート。1年間、主にキャベツ、ほかにホウレン草、白ネギなどの栽培や、重機の操作方法を学んだ。「自分以外はみんな男性なので、私が一番力がなくて、重機の扱いも一番下手。AT限定の免許しか持っていなかったから軽トラでは必ず助手席で。たとえばキャベツは1コンテナに18キロくらい入れて、それを何ケースも運ぶんです。これは大変だ…そりゃ、やりたい人も少ないはずだ…とあらためて思いました。農業を全く知らなかったからこそ、飛び込むことができたんでしょうね」。
 子どもたちに囲まれる毎日から、未知の農業へ転職。強い思いがあったとはいえ、最初は戸惑いも大きかった。「学校に行けば毎日子どもたちが『おはようございます!』とあいさつしてくれて、話しかければ反応があってすごく楽しかったけれど、キャベツはあいさつもしてくれないし何か話すわけでもない。ものすごくさみしかったのを覚えています。なんでこの道を選んだんだろうって何度も思いましたね。でも自分がやると決めたことなので、自分自身で乗り越えました」。
 森澤さんは、周りからはすぐにやめてしまうだろうと思われていたのではないかと言う。でも4年間、教員として過ごした日々は決して無駄ではなく、地域の大人たちは教員を辞めた後も森澤さんを「先生」と呼んで、先生が農業を始めたからと、知恵を貸してくれたり励ましてくれたり、そんなつながりも森澤さんを支えてくれた。野菜がきちんとつくれるようになって店に卸すようになると、お客さんの声も耳に入ってくるようになり、関わりができてくると徐々に気持ちも前向きに。
 地域の学校と一緒に、毎年1000本の薩摩芋を植えるというプロジェクトも始まった。子どもたちと一緒に植えて、収穫して、給食センターに買ってもらい、子どもたちがメニューを考えて、給食でいただくのだ。教員という形ではなくても、子どもたちとふれあう時間が森澤さんに力を与えてくれた。「子どもたちが私を見て手を振ってくれたり、学校の近くの畑で作業していたら近くまで来て『ありがとうございます!』とお礼を言ってくれたり。食育の講師のような形で呼んでもらって自分の夢を語り、学校の先生だったらできなかった子どもとの関わりが面白いですね」。

 1年間の研修が終わると、耕作放棄地を取得して農園を開いた。雑木を切り、雑草を刈り、石を拾い、法面(のりめん)含め1. 5ヘクタールの土地を地道に整備。最初は自分たちでできる範囲で、枝豆とニンジンの栽培からスタートした。枝豆を始めたのは、地元のおばあちゃんたちと開いていた呉での産直市で、旬の枝豆が好評を得たから。
 ReSEEDは森澤さんの父親が経営するユニオンフォレスト(株)のアグリカルチャー事業に属しており、同事業ではカフェも運営しているため、店で使う野菜も必要に応じて増やし、現在約20品目を栽培している。
 「正直、農業はその気になれば誰でもできると思っていたんですけど、ものすごく頭を使わないとうまくいかないものだと痛感しています。天気を読んで、収穫のタイミングを考えて、段取りをして、毎年、毎日、同じではないし、野菜ごとにも違うので、考えないと効率よくできないんですよね」。

 落花生を始めたのは5年ほど前。産直市で、生の落花生をフライパンで炒って食べるようにと提案したのがとても好評だった。「千葉県産も有名ですが、出回っているのは中国産が多いので、ほかであまりつくっていないのが面白いし、加工品にできるというメリットもあって。徐々に増やし、今は落花生の栽培面積が一番大きくなりました」。今やReSEEDの看板商品となっている。
 スタッフは最初1名だったが、現在は5年ほど通い続けてくれている二人のパートさんと最近入ってきた社員さん1人と共に切り盛りしている。四人とも息ぴったりの様子で、和気あいあいと農作業に勤しんでいる。
 7月の取材時点では新型コロナウイルスの影響で、野菜の納品先の一つである自社のカフェは休業中だったため、カフェの従業員さんが畑を手伝いに来ていた。彼らにとって休業は悩ましい問題であることに変わりはないが「自分たちが日ごろ調理している野菜がどのようにつくられているかを知り、野菜を育てることがどんなに大変で、育てて食べてもらう過程でどれほどの喜びがあるのかを肌で感じる経験は、きっと今後に生きると思っています」。
 休業中は持ち帰りのピザを販売し、冷凍ピザや冷凍スープなど、自分たちが作った野菜と自分たちの技術を使って、お客さんに少しでも楽しんでもらえないかと模索中だ(10月現在、テイクアウトやオンラインショップを中心に一部イートインも営業中) 。

PEAceNUTS Café公式サイト
https://peacenuts.jp/

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
現在の内容を保証するものではありません。