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ひろしま食物語 ひろしま食物語

自然農法との出会い

2018年7月執筆記事

尾道市
TEA FACTORY GEN

髙橋 玄機

 玄機さんは広島県安芸郡府中町出身。公務員の両親のもとに生まれ、車が大好きだったことから高校は自動車科に進み、農業とは無縁の少年時代を過ごした。高校の時、カナダにホームステイ。サスカチュワン州の自然に囲まれた町で広大な世界を目の当たりにしてそのスケールに圧倒され、自動車一辺倒だった気持ちに迷いが生じ、次第に海外へと目を向けるようになった。
 高校を卒業するとアメリカの大学への編入を目指してハワイの大学に進学。英語は全く話せなかったが「1年間は気合いで日本語を封印。日本人とも英語で話していたので周りから見たら変なヤツだったと思います(笑)」。しかしハワイに英語を学びに来たにも関わらず周りには日本人が多く、日本にいるのと変わらないことに違和感を感じて1年で退学し帰国した。
 帰ってきたものの特に目的があるわけでもなく、とりあえず大学にと、興味を持った国際関係の学科に入学。「日本に閉じこもっていたらなんだか息苦しくて…」ヨーロッパ、中国、東南アジア…アルバイトでお金を貯めては海外を旅する学生生活を送った。

 大学を卒業すると、京都の老舗茶舗に就職。すでに大学時代にお茶の道に足を踏み入れていた。海外を旅すれば旅するほどに、日本を振り返るようになっていた玄機さん。旅行中に気になったものや会いたい人などをリストアップし、帰国すると詳しく調べたり見に行ったり会いに行ったりを繰り返していた。着物、お香、宮大工、日本茶…日本が誇る数々のコンテンツの中で「世界に打って出られるものは何だろう? と考えた時、世界中で、水の次に飲まれているお茶に注目したんです」。
 就職してからも気になるものを追求して巡る日々は続けていたが「飽き性で、はまったと思ったら一瞬で面白くなくなるような自分が、お茶だけは違った。知れば知るほど分からなくなるし、作るだけでなく文化的な要素もあるし、お茶の全てが日本人の生活に関わっていると気づいた時、天職かなと」。
 就職した茶舗では主に営業と販売を担当した。店頭に立ったり、全国の百貨店を回ったり。この会社はニューヨークにも店舗を持っていたため、入社前から配属を希望していた。入社してしばらく修業すれ希望をかなえてもらえるだろうと期待していたが、よくよく話を聞いてみると、まずは直営店の店長、そしてエリアマネジャー、関西地区の統括を経てようやくニューヨークへの道が開けるとのこと。それも確約されているわけではない。「それなら今すぐ辞めて独立した方が海外に早く行けると考えて辞めました。当時は社会人としても甘かった。今思えば、残った方がきっと早かったですね(笑)」。

 その頃の玄機さんは「海外でお茶を売りたい。それだけでしたね。生産者のことも当時は何も知らなくて、つくることには特に興味がなくて」。そんな玄機さんを変えたのは父親の言葉だった。京都の茶舗を辞めた後「ある日、親父に、結局何がしたいんや? と聞かれて、自分のティーショップを開きたいって答えたんです。すると、まだ販売しか経験していないのにできるんか? って言われて、確かに生産現場を知らないと販売できないなと思って。生産現場を知ればどんな農家からどんなお茶を仕入れたら良いのか、全部把握できるなと。普段はあまり親父の話は聞きませんが、その時は珍しく素直に聞きました(笑)」。
 当時、福岡の兄が経営する飲食店で世話になっていた玄機さんは、ランチタイムとディナータイムの間は店を自由に使っていいよと許可をもらって日本茶カフェを営んでいた。「案の定、誰も来なくて(笑)」という状況だったが、その店では水の代わりにおいしいお茶を出し、評判だった。
 正直なところ、もうお茶はやめようかなとあきらめかけた時期もあったという。しかし父親の言葉に背中を押され、生産者に会いにお茶処である九州を回るうちに「やっぱりお茶が好きだと思ったんですよね」。

 自らお茶農家になろうと決め、広島に戻るか、このまま九州に残るか悩み、どうせなら最南端の鹿児島で勉強しようと就職活動を開始。求人情報を見るとほとんどが慣行栽培(化学肥料や農薬を使った一般的な栽培方法)の農園だったが、1社だけ有機栽培で抹茶、玉露、各種煎茶の全種類を製造している会社があった。そこは全国でもトップレベルの技術を誇り静岡や京都の有名な産地からも研修に訪れるほど。その会社に就職が決まった。
 「オーガニック」という優しい響きとはほど遠く、地平線まで続く広大な茶畑に、ダンプやユンボなどの重機を総動員するような大規模なお茶作り。玄機さんの人生最高レベルの過酷な修業の日々を送った。京都の老舗茶舗に勤めていたことから茶業界をある程度知っていた玄機さんを社長はとても可愛がり、アメリカや日本各地の出張に同行させ、茶業界の重鎮が集まるような場にも同席させたという。

 有機栽培について一通り理解した頃、これが自分の目指す農法なのか、もっとほかに農法があるのか、疑問を感じるようになっていた。そんな時、季節労働で入社してきた従業員の中に、肥料も農薬も使わない「自然農法」で作物を育てているという人がいた。自然の力だけでちゃんと育っているという話を聞いて「これぞ僕が求めていたお茶づくりじゃないか! そんなお茶を作りたい!」と目標が見えた。
 自然農法を体系的に学ぶため、長野にある自然農法の研究所で研修させてもらった。農薬を使わずにお茶をつくっている人が静岡にたくさんいると聞き、長野から車を飛ばして数日間、一軒一軒回れるだけ話を聞いた。それらの農家でお茶をいただくと「旨味はないけどスッキリしている。これが肥料を抜いた時の味なんだなと感じました」。
 自然農法でお茶をつくっている農家で研修したいと考えた玄機さんは、奈良の農家に直訴して泊まり込みで1カ月近く学び、いよいよ自らお茶づくりを始めるために広島に帰ろうと決めた。

 帰ってきたものの、あてがあるわけでもなし。それでも自ら生産し店を出したいという気持ちは変わらなかった。住む場所を探して尾道と宮島を行き来していた時、学生の頃からお世話になっていた宮島の大聖院の人からすぐ近くの六角堂という休憩所のようなスペースが空いているから使っていいよと勧められ、日本茶カフェを出すことにした。その時点ではまだ自分でお茶を作っていなかったので、鹿児島時代の友人が作るお茶を仕入れ焙煎して出していた。
 数カ月が過ぎ、カフェの収入で生活できるくらいに繁盛してきた頃、世羅の茶畑を借りられることになった。大聖院からは毎週土日は休みなくカフェを開けてほしいと頼まれたが、茶畑を管理しながら毎週世羅から宮島まで通うのは厳しいと判断し、カフェは別の人に引き継ぐことに。現在ここでも玄機さんのお茶を飲むことができる。
 世羅に茶畑があることは鹿児島にいた頃に本で読んで知っていた。広島に戻って間もない頃に、この茶畑を管理している比谷さんのもとを訪れてお茶にかける思いなどを話したが「突然、変な若者が来たと思われたでしょうね(笑)」。何度か会ったある日、比谷さんからお茶づくりを辞めようと思っていると告げられ、それなら自分が引き受けましょうと、まずは一角を借り、そのうち全部任せてもらえるようになった。

 同じ頃、今年から受け継ぐことになった茶畑と工場の持ち主である堀田さんを訪ねて東広島市へ。「堀田さんはヒゲにサングラスという出で立ちで、お前にできるか! わしらがどんな思いでやってきたと思うとるんや! って怒鳴られて、萎縮してしまって。それからしばらくはもう行きたくないと思っていましたね(笑)」結局その後もめげずに何度か話をするうちに、こちらも任せてもらえるようになった。

 こうして玄機さんのお茶づくりが始まった。初めは安芸郡府中町の実家から世羅に通い、畑仕事は知人や家族の手を借り、お茶を摘んで細々と売った。「一人ではお茶は作れません。茶摘みも、草刈りも。仲間がいること自体がやる気になるし、発信力も違います。一人ではできないことができる。この仕事に関わっていなければ出会えない人、訪れなかったチャンス、得られるものがあるから、頑張れるんだと思います。これからもずっといろんなことに挑戦したいですね」。販売ルートは広島から東京、海外へと広がり、Tea Factory Genはきちんと足もとを見つめながら、大きな夢も見られる場所へと着々と成長している。

TEA FACTORY GEN公式サイト
https://tea-factory-gen.com/

TEA STAND GEN

〒722-0035 広島県尾道市土堂1丁目14-10
Tel.0848-88-9188
営業日/水木金土日祝日
営業時間/12:00-17:30

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
現在の内容を保証するものではありません。