尾道市御調町で青パパイヤを栽培しているのは(株)尾道熱帯植物研究センター。その中で青パパイヤの栽培の中心に立っているのが、内海洋平さんとお姉さんの千晴さんだ。
会社を設立したのは洋平さんと千晴さんのお父さんである内海龍吉(たつきち)さん。道の駅「クロスロードみつぎ」、天然温泉「尾道ふれあいの里」、「御調グランド・ゴルフ場」などを運営する(株)みつぎ交流館の代表であり、御調町議会議員や尾道市議会議員を務めていた龍吉さんは地域貢献に尽力しており、高齢化と過疎化が進む町の状況を何とかしなければと、常々危機感を抱いていたという。そこで地域に残された資源である耕作放棄地を生かした農業で、地域の活性化を目指すことを決めた。
2014年12月(株)尾道熱帯植物研究センターを設立。栽培する農作物は、米や野菜などすでに多くの農家が手がけているものではなく、新鮮さがあり、かつ収益が見込めるものをと考えた。バナナなどの熱帯植物に注目していたが、情報収集する中でパパイヤに出会った。
新設したハウスと耕作放棄地だった露地におよそ3500本の苗を植え、関連会社や町内の農家など社外からも協力者を募って多くの人員を集め、御調町での青パパイヤ栽培への挑戦は大々的にスタートした。
千晴さんは会社設立当初から社員として携わっていたが、洋平さんは当時、東京で広告関係の職に就いていた。そんな洋平さんに「戻ってこないか」と龍吉さんから声がかかったのは2015年4月のことだった。
「パパイヤで地域おこしを」志高くスタートして間もなく、龍吉さんがステージ4の癌を患っていることが発覚。入退院を繰り返すことになり事業に専念できなくなってしまったのだ。
広告の仕事に不満はなく、やりがいを感じられるようになっていた洋平さんは悩みに悩んだ。でもどうしても断るという決断はできず「そういう運命なのかな」と受け入れることを決めた。6月に結論を出し、2015年9月、洋平さんは御調町に戻ってきた。
9月はちょうどパパイヤの収穫時期。しかし、実ったのはいいが、売り先がないという危機的状況に、洋平さんは愕然とした。対外的な交渉に動いていたのは実質、龍吉さんだけで、引き継ぎもままならない状況で収穫を迎えたため「売る人」が不在、当然「買ってくれる人」もいない。
これはまずい…洋平さんは何とか売り先を見つけなければと奔走した。「使ってもらえませんか」思い当たるところに頭を下げて回り、何とかそのシーズンに収穫した分の出荷先のめどを付けた。洋平さんと青パパイヤの出会いは、波乱に満ちたスタートとなった。
洋平さんは仕事の合間に、病床でほとんど話ができない龍吉さんのもとを訪れては事業の状況を報告した。「うまくいっとるよ」「ええようにやっとるけーな」。そんなはずはなかった。「実際はめちゃくちゃだったから、心の中では、くそっ! 何やってんだよ!(怒)って思いながらね(笑)」。
2015年9月29日、龍吉さんは永遠の眠りに就いた。
地域のためにスタートした青パパイヤ栽培だったが、地域の目は決して好意的なものばかりではなかった。このあたりでは誰も育てたことのない青パパイヤゆえに「一体何をやっているんだ」「出口(売り先)の見えないものをつくって」そんな声も聞こえてきた。
この状況を何とか変えていかなければいけないと考えた洋平さんは、映像アーティストでまちづくりに携わっている幼なじみに協力を仰いだ。そこで「尾道パパイヤ」と名付け、ロゴマークを付けて売り出すことを決めた。
「周りからいろいろ言われているけど、パパイヤは勝手に育てられているだけで、何も悪くないよねっていう話になったんです。だから、良いものとして、ちゃんと育ててあげよう。良いものですよ、頑張ってつくっていますよって、知ってもらうことから手を着けようと。そこから農薬を一切使わないとか、基準を決めて品質を管理するようになりました。失敗しているうちは周りも好きなことを言いますよね。失敗を『内海のおやじが始めたこと』と言われるのも悔しいし。だから無視できないくらいしっかりやっていこうという思いもありましたね」。
厳しい声の中「おいしいパパイヤですね」「待っていました」と楽しみにしてくれるファンも少しずつ増え、そんな声の一つ一つが洋平さんを力づけた。
「パパイヤじゃなくて、たとえばトマトだったら、帰ってきていましたか? 」ちょっとひねくれた質問を洋平さんに投げかけてみた。「考えたことなかったけど…。パパイヤって初めて聞いた時は、何それ? 大丈夫? って思いましたが、パパイヤはトマトみたいにつくっている人が多くない分、差別化に悩むことはないし、良いものをつくれば何とかできるんじゃないかと。性格的に、ビハインドから上がっていく方が楽しいですし。上がれなかったらしんどいですけどね(笑)。当時ありがたかったのが、それまで一緒に仕事をしてきた人にパパイヤの話をすると『すごくいいよ!』『知り合いに話してあげるよ』ってどんどん広げていってくれたんです。あぁ、自分たちがつくっているのは良いものなんだって自信にもなりました。なんせ町内の評価は最悪でしたから(苦笑)」。
試練づくめの日々も、辞めようと思ったことは一度もないという。そもそも「辞められるという選択肢があると思っていなかった」と洋平さん。
とにかくやらなくちゃ! とあがいても結果に結びつかなかった1年目。初めて青パパイヤの栽培に携わった2年目。新たな販路も見え、これまでで一番手応えを感じている3年目。
懸命に取り組む洋平さんたちの姿に、今は温かい目で応援してくれる人も増えてきたという。「批判する人はどこにでもいると思うので、あまり気にしないようにしています。最初から助けてくれている人にはものすごく感謝しているし、いつか恩返しをしたいですね」。
「昔はやりたくない職業の1番目が農業で、2番目がサービス業でした。それなのに今は両方に関わってしまった(笑)。3年目ですが、つくづく農業は難しいなと思います。一番感じるのが、トライ&エラーの間隔が長いこと。今年失敗したことは、来年にならなければやり直せませんから。でも達成感は分かりやすいですね。手をかけたらきちんとできたとか。もちろんその逆で、サボったらダメになることも。もうサラリーマンには戻れないかな(笑)」。
今の課題は、事業を継続していくために収益をあげていくこと。3年間栽培してきて、青パパイヤに合わない圃場(ほじょう)があることが分かってきたため、そこでは別の作物を育てることも検討している。
販路の拡大もまだまだ必要で、広島だけでなく関東の店舗やオンラインショップでの販売ももっと増やしていきたいところだ。
そのため、とっつきやすくロスも少ない加工品に力を入れており、今年からは惣菜をつくる免許も取得して加工場も始動し、より本格的に取り組んでいる。美容・健康に良いと言われるパパイヤのお酢は人気食品。栄養価の高さを知ってもらい、日々の生活の中にいかに手軽に取り入れてもらえるかがポイントだ。
「父の思いを受け継いだという意識はあまりないかもしれません。どちらかというと、ガラリと変えましたから。地域に貢献したいという思いは同じですが、父とはそのプロセスが違います。父の場合は、自分たちがこのように動くことで地域はこうなっていくというようなモデルがあるのですが、僕は、まずは良いものをつくって、きちんと伝えることで、そこから派生するものが地域のためになったという結果につながるのが理想。そうなって初めて『地域のために働いている』と胸を張れるのではないかと。父は青パパイヤを御調の特産品にしたいという思いがありました。僕もそうなればうれしいと思いますが、自分たちがつくっている青パパイヤを『御調の特産品ですよ!』とは、今はまだおこがましくて言えません。きちんとビジネスとして成り立って、皆さんに認めてもらえて、ファンができて、初めて『特産品』になれるのだと思います。『地域のためにつくっています』と言う前に、きちんと良いものをつくって認めてもらって、結果、地域の人たちに『これがわが町の特産品だ』と言ってもらえるのが本来の姿ではないかと。どちらでもいいのかもしれませんが、地域貢献や特産品に至るプロセスにおいて、父の考え方と順番を入れ替えたという感じです。まずは自分たちが良いものをつくって結果を出さないと」。
「地域のために!」と声高に叫んでも、地域を元気にできなければ意味がないと考える。だから今はただ「良いものですよ!」と自信を持って届けられるものを懸命につくる。だって青パパイヤにはたくさんの魅力があるから。御調町に連れてこられた青パパイヤたちは「洋平さんたちに育ててもらって幸せだ」と笑っているかもしれない。
尾道パパイヤ公式サイト&オンラインショップ
http://onomichipapaya.com/
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