敏信さんには長男の寿敏さん、長女の佳織さん、次男の純次さんという3人の子どもがいる。そして3人とも一度は家を出てそれぞれの道を歩みながらも、現在は全員が田島に戻り、共にマルコ水産でそれぞれの役割を果たしている。「子どもたちが小さい頃から、将来は家族で一緒に何かできれば面白いのぅって話しよったんよ。覚えとるかどうかは分からんが(笑)」敏信さんが思い描いていた通りの未来が今訪れ、家族は足並みをそろえ同じ方向に向かって進んでいる。
〈長男 兼田寿敏さん〉
長男の寿敏さんは大学を卒業後、全国にインポートブランドショップを展開する会社に就職し、商品の販売や買い付け、店舗運営など幅広い経験を積んだのち、今年の5月からマルコ水産で海苔師として第二の人生のスタートを切った。兼田家の長男である寿敏さんは就職する際、いずれ家業を継ぐことをぼんやりと意識していたため長く勤めるつもりはなかったというが、次々に仕事を任されるうちにあれよあれよと18年の歳月が過ぎていた。「本気でやれば一生の仕事にできる」と海苔師に価値を感じて、40歳になる年に決断した。ひと足先に長女の佳織さんと純次さんが家業に入ったことも、後押しとなった。
10年前に職場結婚し、寿敏さんの妻は今現在も会社員として好きな仕事に打ち込んでいるため、妻と息子は広島市内で、寿敏さんは田島で、それぞれの生活を送り、週末に行き来する日々を続けている。
「海苔の仕事自体は子どもの頃から見ているので想像はできたのですが、これまでデスクワークが中心だったこともあって、体力仕事はなかなかきついですね(笑)。家族と離れていることはやはりさみしいですが、それ以外は特に不満はありません」。
家業の一端を担うということに関しては「やることが全部自分の身になるという実感はすごくあります。本当の意味で、自分たちの事業を育てているという感覚。これまでは『自分の会社というつもりで取り組む』だったけど、つもりではなくて、そのものですから」。
自社加工品にウエイトを移行しているマルコ水産において、流通のプロとして活躍してきた寿敏さんのノウハウは宝。これまでの経験を生かして、小売りの面からもマルコ水産を導く役割が期待される。
とはいえ「自分の特性を生かせるのは加工品の方面だと思いますが、まずは海苔師としてのベースがないと始まらない。この仕事さえできればいいではなく、全てできるようにならないといけないと思っています。沖の仕事もしっかり覚えていかないと」とまっさらな気持ちで臨んでいる。
子ども時代から恒例だった家族旅行については楽しい思い出としてよく覚えているという。どれも楽しかったからと選びづらそうに「一番印象に残っているのは黒部ダム。いろいろな乗り物を乗り継いでたどり着いて、景色の素晴らしさにも、ダムの大きさにもびっくりした。人間がこんなものをつくったのかと。こんなすごいものを、こんなへんぴな場所につくったというのが驚きでした」。
帰ってきてまだ半年、海苔師としてはスタートしたばかりだが、家族について、マルコ水産について、未来を守りたいという気持ちの強さはみんなと同じ。「兄弟三人の得意分野が上手いことばらけているので、そこは強みになるんじゃないかと思います。父も母もまだ現役で、たくさんの従業員が働いてくれているから、みんながずっと安定して暮らしていくためには、もっと会社を大きくしないといけないなという思いはありますね。僕たち兄弟もみんな家族をもっていて子どももまだ小さいですし。海苔という柱を守りつつ、さらにうちの強みにできるような別の柱も考えていかないと」。
〈次男 兼田純次さん〉
子どものころから野球に夢中で、福山市内の少年野球チームに入り、高校は強豪校に進学して寮生活、大学でも野球に明け暮れていた次男の純次さん。プロの道をあきらめ、あらためて自らの進路を選ぶ時、実家が水産関係だから料理の技術があれば面白い仕事につながるのではないかと考えた。大学4年生の春に部活を引退してから飲食店でアルバイトを始め、卒業すると福山市内の料亭で4年、居酒屋で6年、料理人として修業を積んだ。
「料理が楽しいというよりは、お客さんに喜んでもらえることが料理する楽しさにつながるという感じ。最初の店では新米だったけど、技術を身につけて次の店では料理長まで任されるようになった。そうなると全部自分で考えて自分色の店にできる。メニューも価格も。それがお客さんにうけた時の楽しさもありました」。
その店を31歳で退職。もともと家業に役立ちたいと入った料理の世界。どこかで見切りをつけないとと機会をうかがっていた。過酷な労働環境に疑問と限界を感じ、30歳になる年に結婚し家族との時間を大切にしたいという思いもあった。そんな時、マルコ水産で生海苔の佃煮を開発しようという話が持ち上がり、決断した。
子どものころに多少手伝った程度で、海苔に関しては完全な素人。先輩たちに一から教わりながら海苔師として技術を磨いている。「きついだろうと思ってはいたけど、正直、ここまでとは。肉体的には想像を絶するきつさです(笑)」。
しかし精神的には満たされている。誰かに指示されて動くのではなく、目標に向けて自分で段取りを組める。自社商品についても「自己満足で、できたけど売れないでは何も楽しくない。どうすれば評価されるか、どこにどう営業をかければ売れるのかを考えるのも面白い。ターゲットと自社の製品がバチッと合わさったときの手応えがやりがいです」。
一度はそれぞれの道を進んだ家族が、結果的に今こうして集まって一緒に海苔を作っていることについて「こんな家族も珍しいと思う(笑)。家族だから言える部分と、家族だから言えない部分があって、やりやすいことも難しいことも、半々。何が良いかって、具体的には表現しづらいけど、家族が一緒って、どう考えても良いじゃないですか。自分一人で抱えなくても良いし、もし大きな問題が起きても責任を等分できる」。
マルコ水産の海苔師でありながら田島の海苔師として、地域の未来も見つめている。「お金儲けも大事だけど、地元の利益につながらないような金儲けはしたくない。うちが海苔を作って売ることによって田島が知られて、良いところだな、遊びに行ってみようかなと思ってもらえるように、海苔づくりと地域がつながらないと意味がない。儲かるからこうしようではなくて、田島をこうしたいからという発想につなげられる会社でありたい。うちの海苔が日本全国に知れわたるようになって、田島産海苔の相場が上がって、田島のみんなが良い思いができるようになったら最高ですね」。
海苔師の一歩を踏み出して4年半、大きな未来を夢見つつ、まずは足元を見つめて「海苔をつくるために海の上で仕事を必死で覚えているところ。今日と同じ仕事は二度とない。今はがむしゃらに先輩たちについていくだけです」。
純次さんは料理人の経験を生かしてマルコ水産の海苔を使ったレシピを数多く発案し、自社のウェブサイトで公開している。最初から何を作るかを決めて材料を集めるのではなく、その時に手に入った食材をキッチンに並べて、思いつくままに手を動かしていくのだそう。まだ未公開のレシピもたくさんあるとのことで、公開されるのが楽しみだ。
味にこだわるマルコ水産だけあって、加工場にはプロ顔負けの厨房が併設されている。現在は主に、春の定置網観光のお客さんに魚料理を振る舞うために使われているが、将来的には、海苔を使った料理を食べてもらえるような店舗としての活用も構想しているとのこと。その時はもちろん、料理長として純次さんが再び、思う存分、腕を振るってくれることだろう。
〈妻 兼田 緑さん〉
緑さんと敏信さんが出会ったのは、前職の会社。緑さん21歳、敏信さん26歳の時に結婚した。敏信さんが田島に帰って海苔師になると聞いた時「家業のことは聞いていたので、いずれは帰る予定ではいたけど、まさかそんなに早くとは」と驚いたという。広島と岡山の県境で山に囲まれて育った緑さんは、海の男に嫁ぎ、海と共に暮らすことになった。
田島に戻った時、長男の寿敏さんは3歳、長女の佳織さんは2歳だった。
「会社員時代に、友人と田島に遊びに来たことがあって、港に海苔の網がずらりと掛けてあったのを見て、何かなと思った記憶があります。みんなでごはんを食べようという時に、おばあちゃんが大きな鍋で佃煮を炊いてくれて、もともと佃煮は好きだったけど、炊きたてでまだ熱々の佃煮を食べて、こんなにおいしいものがあるんだと。まるっきり味が違うんです。一番感動した海苔との出会いでしたね」。
戻ってきてからの生活はとにかく忙しかった。幼い子ども二人を抱えて家族9人分の家事に加え、当時は出稼ぎに来て住み込みで働く人も多く、兼田家にも3~4人の従業員が住み込んでいたため、その食事の支度や洗濯などもこなした。「あっという間に一日が過ぎてしまう。若かったからできたのかな(笑)」と今となっては笑って話せるが、並大抵の労力では務まらないことは想像に難くない。
次男の純次さんが中学を卒業するころになると本格的に家業に携わるようになり、主に事務と加工場の作業を担った。
「(敏信さんは)いつかは家族で何かできたらいいなと、ちょくちょく話していました。だけどまさか三人全員そろうとは。長男が帰るたびにみんなで海苔の話をしていたからかな。みんなが一緒というのは大変うれしいけど、反面、心配もあって。ダメになったらみんなダメになりますから。だから絶対につまずいたらいけないと力が入るのかなと」。
一時は、敏信さんと緑さんの代で終わりにしようと話したこともあったという。海苔の低迷期が長く続き、何とか乗り切らなければと加工を始めた。袋一つ作るにも投資が必要で辛抱の時期が続いたが、厳しい中にも「(敏信さんが)やると決めたら、それについていけばなんとかなるんじゃないかと信じていたので、大きな不安はありませんでした」。
盆も正月もない生活だが、家族旅行は欠かさず、子どもたちが幼いころから夏休みを利用して日本全国いろいろな場所に家族みんなで出かけ、今でも恒例の旅行は続いている。「富士山を見に行った時、当時一年生だった純次が登りたいって言いだして。翌年、頂上まで登りました。正月も普段通り仕事なのでおせちも初詣もありませんが、ここにいれば初日の出を拝むことはできます。旅行中は、旅館での宴会もすごいですよ(笑)」。日ごろから毎晩の食事も討論会状態だとか。仕事や普段の生活においては敏信さんを尊重する緑さんだが、家族旅行のプランに関しての決定権は握っているそうだ。
「これからもおいしい海苔を食べていただくために、おいしい海苔をつくっていきたい。自然が相手の仕事ですから、いつまで海苔ができるかなという不安もありますが。あとは海に出たら無事に帰ってきてほしいと、ただただ祈っています」。
〈長女 窪田 佳織さん〉
物心ついた時には両親が海苔の養殖を始めていたという長女の佳織さんにとって、海苔づくりの光景は当たり前の日常だった。夏休みになると蝉採りの合間に網の手入れを手伝い、冬になれば海苔工場のストーブで海苔を焼いて食べる。海苔の仕事と共に過ごした日々。お弁当には必ず青い袋に入った味付け海苔が添えられており、学校のストーブでみんなで海苔を焼いて食べることもあった。田島は海苔の養殖が盛んだったため、一学年に一人は家が海苔の養殖業だという子どもがいた。
佳織さんは現在二児の母。子どもたちも毎日海苔を食べる。手巻きにしたり、パンにのせたり、チーズと合わせたり。自社で加工するようになってからは製品にならない端っこの部分や破れた部分が出るようになり、以前より食べるようになったという。ここで働くようになってから、スーパーや旅行先でも他社の海苔が気になって意識して買うようになり、あらためて自社の海苔のおいしさに気づいた。
佳織さんは結婚する前から司法書士事務所に勤めていたが、出産を機に退職。6年前から子育てをしながらマルコ水産で母の緑さんが抱えていた事務の仕事を手伝うようになった。佳織さんが入るまでは人手が足りず、敏信さんのアイデアもなかなか形にできなかったが、それらを形にするのを徐々に佳織さんが任されるようになり、現在は事務作業を中心に直営店やオンラインショップの管理・運営、イベントや商談会など営業的な業務も精力的にこなしている。広島市内や東京などでイベントや試食販売をすると、広島県で海苔を作っているのを知らない人がまだまだ多いという。
自社商品のパッケージにもこだわりがあり「海苔っぽさをあえて外して、手軽に、若い人も手に取りやすいデザインに挑戦しています。テーブルにそのまま置いてもらえるような。子どもが海苔好きなんですっていう若いお母さんもいますし。子どもはスナック代わりにパリパリ食べるんですよね。栄養もあるし罪悪感のないお菓子です(笑)」。佳織さんの娘が描いた愛らしい「おにぎりくん」のイラストも採用されている。お客さんの反応を見ながらあれこれ考えるのが楽しい。
「もともと帰ってくるつもりはなく、手伝い始めたころもずっと働く気はなかったのですが、だんだん任されることが増えてきて、自社加工も成長してきたので面白くなってきました。家族なので遠慮がない分、ぶつかることもあります。やり方はそれぞれ思うところがありますが、行き着きたい場所は一緒。兄も弟もそれぞれに帰ってきた理由は違うのですが、ものを売っていた兄に、料理人だった弟に、それぞれが『武器』を持って帰ってきたみたいな(笑)。これからも、おいしい海苔を食べてもらうことはぶれずに守りたいですね。生産者として初心を忘れず、素材を大切にしていきたいと思います」。
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